深夜放送から流れていた日本のフォークやロック 第二部
  • 第11回 中山ラビ/山崎ハコ/高木麻早Open or Close
    当時は前回の三人に加え、もう一人中島みゆき御大もいらっしゃいました。ハコさんはそんな中島さんとよく比較されていました。ただそのアイドル的ビジュアルは当時ちょっとした騒ぎになりました。詞がわりと内向きな印象でした。そんな印象から積極的には聞かなかったのですが、親しい友人の中にハコ好きが一人いまして、消極的に聞いていた次第です。ただ、『気分を変えて』は一回聞いただけで好きになり、「バイ・バーイ」が頭の中で繰り返していました。
    片や麻早さんが比較されていたのはユーミンでした。デビュー当時の麻早さんはデビュー曲とも相まって人気がユーミンを超えていた時期もあったと思います。ラビさんはデビューは一番古く、最初はハコさんに近い印象だったのですが徐々に変貌を遂げていきました。ファンキーになってしまってびっくり。
    年齢は麻早さんがユーミンと同世代。ラビさんは少し上でハコさんは少し下です。 三人とも現在も現役でライヴなどもやられているようです。ハコさんは印象が昔と全く変わらないです。ちょっと暗いイメージだった二人のデビューアルバムのジャケットが何故か似ているのは偶然でしょうか。



  • 第12回 インパクトな二組 友川かずき/外道Open or Close
    この二組は当時で一番インパクトのあった登場をしたアーティストです。
    友川かずきさんは確かTVKの『ヤング・インパルス』で初めて知りました。それは強烈な印象が今も残っています。こってこての秋田弁でぼそぼそと話す姿もよく覚えています。もともと秋田弁が私は好きだったためかも。曲が進むにつれ、その激しいストロークのせいかギターの弦が切れてしまってました。最終的に2、3本は切れていたと思います。とにかくその歌を聞けば誰でも一回で記憶に残ってしまうでしょう。





    次は外道。このグループは現在も「ゲ・ゲ・ゲの外道」として一部に崇拝的なファンが存在しています。この『香り』という曲で外道を知ったのですが、この曲も一回聞けば誰の記憶にも残ってしまうでしょう。当時は、外道というのはコミックバンドなのかと思っていました。ただ、加納秀人のパフォーマンスは素晴らしかった。なんかわからないけど、着物風のコスチュームといい、ドラムの後ろの鳥居といい、トリオとしてはいい音出していたしなんか好きでした。 最近ライヴに行ってきました。再結成のメンバーですけどみんなパワフルで、加納さんのギターも不変でした。
  • 第13回 逝っちまった二人その1 西岡恭蔵/河島英五Open or Close

    とつとつと歌う西岡恭蔵さん、時に叫ぶように歌う河島英五さん。上の写真は大阪難波の大塚さんの喫茶店『ディラン』です。恭三さんに耳が向いたのはセカンドからだと思います。バックに細野さんが参加したからかも。サードアルバムでは鈴木茂とハックルバックが参加。名曲『プカプカ』を初めて耳にしたのはディランのバージョンではなく確かみなみらんぼうさんが歌っているのを耳にした時だと記憶しています。ディランの大塚さんは今も『プカプカ』を歌い続けています。あのくせのある歌い方で。恭三さんと奥さんは二人で一つだったのでしょう。ただもう少し頑張ってほしかった。


    今も四十代以上はカラオケで必ずといえるほど誰かが歌うのが河島英五さんでしょう。でっかい図体によれよれのコートを着て、少し猫背気味に歌っていたイメージが今も記憶に焼きついています。この人も初めて聞いたのは“ヤング・インパルス”だったかも。曲は確か『てんびんばかり』でした。テレビでは珍しく長い曲だったので覚えているのでしょう。カラオケで人気のある『時代おくれ』や『野風増』は残念ながら英五さんの作詞ではありませんでした。ただ、これからもずっと男たちに歌い続けられていく曲には違いありません。でっかい体に繊細な心を持った人でした。

  • 第14回 逝っちまった二人その2 浅川マキ/忌野清志郎Open or Close

    二人目のマキさんです。浅川マキという人を初めて見たのは吉祥寺の地下にあった“曼陀羅”でした。最初にヒットした『夜が明けたら』一曲で浅川マキに惚れてしまった人も多かったと思います。もともとブルースが好きだったので、たまたま誘われて行ってみたという程度でしたが、ストイックでちょっと恐くて自分の世界にすぐみんなを取り込んでしまう人で、私も取り込まれました。マキさんの聞くようになってから、この人も一人目のマキさんと同様に寺山修司とつながっていることを知ってびっくり。ちなみに『ふしあわせという名の猫』の歌詞は寺山修司氏です。そして『赤い橋』の作詞はフォークルの北山修御大です。マキさんを見るたびに“淋しさ”を感じてしまうのは何故でしょう。


    清志郎さんのことは説明もいらないと思いますのでちょっと想い出を。
    3人でまだフォークをやっていた頃の『僕の好きな先生』の内容が私の小学校や中学校時代とかぶってまして、美術と音楽が好きで、両時代とも美術や音楽の先生とは親しい先輩のような感情で会いに行ったりしていました。美術の先生はいつもパイプを加えていて、美術室はタバコと絵具の匂いがしていました。テレビでRCを見た時は他に古井戸の二人も出ていました。その時に『2時間35分』がそれ以後ずっと頭に残ってしまいました。「にじかんさんじゅうごふーん」の所だけが何かの時にリフレインしていました。
    その後RCとは離れてしまい、「にじかんさんじゅうごふーん」が誰の歌だったかも忘れていました。何年か後、たまたま新しい事務所に移った時にRC大好き人間がいまして、テープを聞かせて貰ってびっくり。ロックバンドになっていました。そしてようやく「にじかん~」がRCの曲だったと思い出したわけです。その時知った『トランジスタラジオ』もまたまた自分とリンクしていてびっくり。六畳に7人で寝ていた頃、小さなトランジスタラジオを叔母に貰って、毎日耳にピタッと付けるようにして聞いてました。そこで洋楽と出会ったわけです。ただ、私は授業はさぼっていませんけど。今、こんな時代なっちまったこの時こそ清志郎が必要です。清志郎帰ってこーい。第二の清志郎出てこーい。 『ヒッピーに捧ぐ』をそのまま清志郎に。
  • 第15回 GSの2巨頭 ザ・スパイダース/ザ・タイガースOpen or Close

    GSは短い間でしたが一時代を築きました。その中でのこの2グループは両極と言ってもいいグループでした。スパイダースは個性の集団。言わば一つの会社のようです。田辺社長(後に本当に社長になった)の下に確実に仕事をこなす役職三人(井上、大野、加藤)、そして個性の際立った営業三人トリオ(マチャアキ、ジュン、ムッシュ)。アルバムで発表する曲も半分が洋楽をムッシュがアレンジしたカバーでした。全曲オリジナルのアルバムは“明治百年すぱいだーす七年”というアルバムだけだと思います。そのアルバムに入っていたのが『真珠の涙』です。他は当時テレビでやっていた“ザ・ヒットパレード”のようなアルバムがほとんどでした。ただ、そのムッシュのアレンジが素晴らしかった。マチャアキはお父さんの堺駿二さんの方が有名で子供の頃からテレビで見ていた人でした。なんでもこなすエンターテイナーでありコメディアンでした。これこそ“蛙の子は蛙”そのままです。見ていて本当に楽しいグループでした。ユーチューブで『デイ・トリッパー』でも見てみてください。三人営業トリオが笑えますから。


    心に残るメロディーが一番多いのがタイガースです。シングル盤も両面ともA面でもいいような曲がたくさんあります。GSのシングルで一番多く持っています。今聞いてもジュリーは素晴らしい艶のある声の持ち主だったのがわかります。基本的にストーンズを目指していたのがライヴを見るとわかります。それなのに、何故ビージーズに近づいていったのか昔からずーと疑問のままです。ジュリーは昔から正しいと思った事を貫き体制には媚びないそのスタイルで好きでした。木島則夫ハプニングショー事件もナマで見ていました。ジュリーが真剣に語っていた姿は私自身のタイガースに対するイメージを大きく変えたと思います。
    『落ち葉の物語』は大ヒット曲『君だけに愛を』のB面で、メロディが聖歌の何番かににちょっと似ていますけどきれいなメロディーのいい曲です。『風は知らない』もB面の曲です。これもジュリーの艶のある声にぴったり。ただ、このシングルではトッポがハモっていますが、このレコードが出た時にはトッポが脱退していました。ジュリーとの意見の食い違いだと言われていました。そのためジャケットのバックの四人の一番右がトッポなのですが、なんと画像がぼかされています。こんなことをしてよく問題にならなかったと思います。『忘れかけた子守唄』は一番好きだったコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』から。このアルバムは1曲目から最後の曲までが時代の流れになっています。『光ある世界』から『青い鳥』が現われ、やがて戦争になり廃墟と化し、そこから飛び立つ一羽の鳩。

  • 第16回 リヴ・ヤングから登場した関東と関西の2巨頭 キャロル/ファニーカンパニーOpen or Close

    キンキンが司会だった“リヴ・ヤング”当時では珍しい情報番組でした。そこに登場してきたのがまだアマチュアだったキャロルとファニカンです。キャロルにはそれほどの驚きはありませんでした。全員リーゼントでロックンロールという60年代のスタイルでしたから。デビュー当時のビートルズスタイルです。ただ、覚えやすいオリジナルのメロディーに載せた日本語の歌詞が心地よかった。そんなキャロルにとびついたのがミッキー・カーチスさんで、すぐにプロデビューとなりました。曲は基本はロックンロールでしたが、バラードもいい曲がたくさんあります。


    そんなバラードを中心に4曲。永ちゃんとジョニー二人がボーカルをとるのですが、ジョニーがメインの曲が多かった気がします。そしてラストコンサートの最後の曲のあとに日比谷野音が煙に包まれた映像は強烈に覚えています。
    ファニカンが登場したのはキャロルのすぐあとでした。こちらの方がインパクトがありました。大阪弁のロックというものを初めて耳にした感想は「これはアリ」。はっぴいえんどの日本語ロックを初めて聞いたときに近い感じでした。ブルースっぽい曲には大阪弁が何故か非常に心地よく、不思議な感覚でした。そんな期待を持ってアルバムを聞いてがっかり。2曲しか大阪弁で歌っていないのです。全曲大阪弁にしてほしかったです、桑名さん。二つのグループとも2~3年で解散してしまいました。
    その後のリヴ・ヤングに登場したのがダウンタウンヴギウギバンドでした。『くそして一服……』って唄。

  • 第17回 アコースティックにしたら名曲になった2曲 甲斐バンド/スターダスト・レビューOpen or Close

    その二曲とは『破れたハートを売り物に』と『木蘭の涙』です。人それぞれありますので、前のバージョンの方が好きな人もいるとは思いますが。
    甲斐バンドの初見の印象は甲斐さんがサウスポーで、右用のギターをそのままひっくり返して弾いていたことでした。独特のしゃがれ声もロック向き。最初にヒットしてテレビにも出だした曲が『裏切りの街角』。初期はフォーク歌謡的な音でした。『破れたハートを売り物に』の最初のバージョンはパーカッションの音がちょっと気になっていたので、アカペラになって聞きやすくなりました。年齢のせいかスローな曲の方がみんなで一緒に歌えますし。77年頃、甲斐さんがセイヤングをやっていた頃はもう働いていたので深夜放送は卒業した後でした。元々パックとオールナイト・ニッポン派ですけど。


    スタレビはチケットコーナーで書いたように初めて知ったのがエリック・クラプトンのコンサートの前座です。本当にいい音で、日本にもこういうなグループが出てきたことを一人喜んでいました。今考えると『シュガーはお年頃』を演奏したのですが、ブギウギが好きだったこともあり、クラプトンが始まる前にちょっと得した気分でした。
    要さんの特徴は高いキーと機関銃のようなおしゃべり。サービス満点のライヴ。全国のファンがずーとスタレビを追いかけるのも納得です。極上のバラードも数多く、現在も活動しているグループの中では一番です。要さんが入院した時はちょっと心配しました。彼は私より年下なので。『木蘭の涙』ですが、これはアコースティックにしたことが名曲を生んだと思います。

  • 第18回 ある意味対極にいた三人組 ガロ/かぐや姫Open or Close

    この二組はデビューがほぼ同じ1970年頃です。ただそのスタイルは全く異なっていて、ガロはなんとマーチンD45という誰もがあこがれたフォークギターの王様をトミーとマーク二人が奏で、三人がCSNのような変則和音でハモるというグループでした。最初に聞いたのはオリジナルではなくCSNの「Teach Your Children」だったと思います。CSNはウッドストックの時から一番好きなグループだったので、ガロをあえて聴こうとは思いませんでした。結構そういう人が多かったと思います。
    ただ、ギターテクニックはすごかった。そんなわけで、つかず離れずという感じで4枚目くらいまでは聞いていました。「学生街の喫茶店」がヒットして以後のシングル曲はアルバムに入っていない曲も増えました。あきらかにアルバム曲とは曲調もアレンジも違うので、そんな曲を歌う三人はどういう 気持ちだったのか、こちらも複雑な気持ちになったものです。


    かぐや姫は最初はラジオのスタジオライヴからで、「酔いどれかぐや姫」の『シャーララー…』という奇声がインパクトバツグンでした。まだ第一次の時です。コミックバンドかとも思ったものです。その次に聞いたのが第二次かぐや姫「青春」で、普通のさわやかなフォークに変わっていました。そんなわけで、第一次かぐや姫の印象があまりありません。
    そしてかぐや姫はパック・イン・ミュージックのパーソナリティーとなります。その頃のパックの中で覚えているフレーズがあって、『綿入れのふとんがほしいのー』とかいう言葉をラジオの向こうの三人が叫ぶので、こっちの方も影響されてしまって頭の中でリフレインしていました。私自身はかぐや姫に〈畳フォーク〉と勝手に名付けていました。その後に聞こえてきたのが「神田川」です。
    こうせつさんと坂崎くんがこうせつさんをまねて二人で歌う『二人こうせつ』は一度は見る価値あり。
  • 第19回 ことあるごとに比較された二人 ユーミンvs中島みゆきOpen or Close
    二人はほぼ同じ時期に登場し、ある種対極をなしながら40年以上にわたりトップランナーとして女性の時代を作り続けています。昔はユーミン派とみゆき派とも分けて比較した雑誌が多々ありました。まるで、ビートルズ派とストーンズ派のようでした。当時のフォークは四畳半フォークとも言われ、生活に密着した歌詞が多かった中、東京の呉服屋のお嬢さんだったユーミンは自分の音楽を中産階級サウンドと言い、ジーパンを絶対はかず、その時代の空気を豊かな表現力で歌に変えていきました。一方みゆきさんは北海道の産婦人科のお嬢さん。ただ、ユーミンが全く関わらなかった学生運動に関わり、反戦歌を歌っていました。人と人が蜜に討論する中でその時代を懸命に生きる人の精神を人の痛みを歌うようになったと思います。
    ●ユーミン
    はっぴいえんどの流れから自然にレコードを聞いたのが荒井由美でした。同い年というともあって歌詞に出てくる東京オリンピックとかアポロ11とか同じ体験をしてきました。荒井由美時代のアルバムは3枚目までは相当聞いたせいなのか、一枚のアルバムを聞きだすと両面で一つの組曲のようになってしまっています。当時はユーミンの使ったことのないような言葉選びに「ベルベットって何?」「べっちんのことみたいだ」なんて会話が交わされていたと思います。それとクラスに一人はドルフィンに行ってソーダ水を飲んだやつがいたはずです。
    チョイスは松任谷由美になってからの曲です。1曲目の『潮風にちぎれて』は結婚して苗字が変わった近辺の曲で、この曲の中に出てくる主人公と共に当時、一番好きな曲でした。確かこの当時高中正義もユーミンとの対談でこの曲が一番好きだと言っていました。
    結局その後も松任谷由美の中に残っている荒井由美を探して聞いていた気がします。それが以後のチョイスです。ただ、『ダ・ディ・ダ』からはユーミンの声が若干変わってしまってそれ以後は何年か離れ、次に耳にしたのは冬彦さんでした。
    余談ですが、前にユーミンと道ですれ違ったことがあって、真横に来たときに隣の人と話す声でユーミンと気づいたのを覚えています。声が聞こえなかったら絶対わからなかったと思います。


    ●中島みゆき
    みゆきさんはやはり“北の国から”。倉本聰さんが何曲も挿入歌として使用しています。今も挿入曲を聞くとそのシーンが思い出されます。車の中でもみんなで聞けるユーミンと違って、初期は夜一人きりでじっと聞くタイプです。
    ユーミンと違って瀬尾さんに固まるまでにアレンジも編曲も毎回のように人が関わっていました。ユーミンファミリーだった細野さんや茂さんもバックを演奏しています(細野さんは一曲だけですけど)。 特にいろいろな所で語られている七枚目のアルバム『生きていてもいいですか』は今も聞くのに覚悟がいる蟻地獄のようなアルバムです。一曲目からドーンと落とされ、『蕎麦屋』でやっと立ち直ってきたと思ったら再びドーンと落とされます。最後の曲は“北の国から”でみどりさんが五郎さんにぼそっとこの曲を知ってるか訊ねた次の日に麓郷を去っていくシーン。あまりに悲しくつらい曲です。
    このアルバムと『化粧』は今も軽く聞くことができません。桜田淳子が歌っていたのは聞いた覚えはあるのですが、歌っていたことしか覚えていません。同じ曲なのに同じように泣くように歌っているのですけど。
    チョイスの一曲目はデビューアルバムの一曲目です。他は『ホームにて』のようてショート物語のような曲を選びました。曲によって全く歌い方が変わるのがみゆきさんの特長で、中には『とろ』みたいなコミカルな歌い方をする作品もあります。ただ、夜会が始まってからは歌い方が変わってきました。最近は歌を聴くだけで歌っている顔が浮かんできます。

  • 第20回 2番目のひと オフコース&チューリップOpen or Close
    オフコース、チューリップともヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストからのライバルであり友人です。小田さんと財津さんはその後も本当にいい関係でうらやましいかぎり。いつだったかこの二人とユーミンが競技場で三人で一緒に新曲を作って歌ったのをラジオで聞いていた記憶があります。
    ●オフコースにおけるやっさん
    オフコースを知ったのは『僕の贈り物』がやはりラジオから聞こえてきた時で、それまでになかったメロディーやハーモニー。一回聞いただけでメロディーが頭に残りました。当時は洋楽どっぷりの時代だったので、アルバムで聞いたのは『ワインの匂い』です。今でも一番好きなアルバムです。二人のオフコースの最後のアルバムだと思います。このアルバムは主観ですが鈴木さんの曲の方がメインになっている感じがしています。
    それ以後はシングルA面はほぼ小田さんの曲になり、あの高く美しい声がオフコースの特長になっていきました。僕の周りにはオフコースを聞いている人がいなかったので。アルバム『we are』が本の平積みのようにレコード屋に積まれていてこんなに人気があるのかとびっくりしました。
    他の三人が参加しはじめたアルバムで見た名前には知っている名前が。松尾さんはテレビのバンド勝ち抜き番組で見ていた女子学生受けのジャネットにいた人、清水さんは新宿のルイードに出ていたバッドボーイズ。ジャネットは当時は興味なし、バッドボーイズは確かビートルズのコピーバンドで全曲演奏できるというのが売りだったと思います。ただ、ルイードでリクエストされた1曲が演奏できずに客に謝ったという事をなんとなく覚えています。その曲は『ハー・マジェスティー』でした。
    チョイスは鈴木やっさんの曲オンリーです。特に最後のシングル『ロンド』は好きな曲です。小田さんは今も現役バリバリですが、クリスマスにでもやっさんを呼んで昔の一曲を二人で演奏して欲しいものです。


    ●チューリップにおける姫野さん
    チューリップといえば財津さんのバンドという印象が強いのですが、姫野さんがメインヴォーカルの曲も結構シングル盤のA面の曲が意外と多いのです。なんせ最初に大ヒットした『心の旅』は姫野さんがヴォーカルを担当しています。この曲は当時ラジオのいろいろな番組でかかっていて、喫茶店に入れば必ずかかっていました。オフコースが世に知られるようになった『眠れぬ夜』より何年か前のことで、チューリップの方が先にメジャーになっていました。
    姫野さんの歌い方は舌がちょっと長いのか短いのか独特の歌い方でその当時は好みが結構分かれていました。ただ、その声が安部さんのあまいギターの音色とマッチしていたと思います。それでもやはりコーラスの部分になると財津さんがどーんと顔を出してきます。
    チョイスはもちろん姫野さんのヴォーカル曲オンリーです。僕の中ではオフコースとチューリップは今も兄弟のようなグループという位置づけで認識しています。いつだったかどこかのリクエストができる喫茶店で初めてリクエストをしたことがありました。その時リクエストしたのが『銀の指輪』でした。

  • 第21回 ベストセラーアルバムの一つ前も素晴らしい 井上陽水&五輪真弓Open or Close
    二人のデビューはほぼ同じ時期だと思います。陽水はその前にアンドレカンドレという名で歌謡曲みたいなのを歌ってました。今聞いても曲はフォーク調ではありません。
    ●陽水
    陽水を聞くきっかけは“傘がない”と“人生が二度あれば”です。当時は拓郎などテレビには出ないことがホンモノ観を増していた時代。そんな時代に映像で見た記憶があります。ボッサボサ頭でうつむき加減でこの曲を歌っていたと思います。その声が聞き慣れた拓郎のしゃがれ声と正反対の透き通ったのびやかな声でした。この番組は多分TVKの『ヤングインパルス』だと思います。スタジオライヴが見られるのは当時はこの番組くらいでしたから。その後、ラジオから流れてきた“夢の中へ”で陽水が全国区になったと思います。アルバムとしては、やはり『氷の世界』。このアルバムからの“心もよう”の大ヒットと共にアルバムが怪物アルバムになります。それ以後に拓郎VS陽水という構図が誕生しました。特に陽水の歌詞は独特で素晴らしい表現です。言葉の天才です。
    二枚目の『センチメンタル』は三枚目の『氷の世界』と共に素晴らしいアルバムで自分としては一番好きかも。おもしろいのは『氷の世界』の一曲目の“あかずの踏切り”は『陽水ライヴ もどり道』での同名曲と歌詞が全く同じで、メロディーが全く違う曲です。後にユーミンが同じ手法で二曲を作ろうとした時に陽水が既にアルバムに収録したことを知ってあきらめたそうです。
    陽水のアルバムを聞くときは歌詞を文字として読んでください。陽水ワールドの表現がたくさん出てきます。
    陽水が一気にメジャーになったせいで、陽水のバーターとなってしまった清志郎。その二人がその後横並びに歌うコンサートは感慨深いものでした。特に名曲“帰れない二人”を二人で歌う姿は涙モノです。


    ●五輪真弓
    五輪さんはデビューは鳴り物入りでした。まだ、ユーミンもいない頃、日本の女性でピアノで歌うシンガーソングライターを初めて見ました。前年に世界的にヒットしたアルバム『つづれおり』のキャロル・キングが参加しているアルバムだという触れ込みでした。そしてそのアルバムからのシングル曲が“少女”。魅力いっぱいでした。日本での女性初シンガーソングライターの誕生でした。
    ただ、その次の年にユーミンの『ひこうき雲』が登場しました。こちらもバックをキャラメルママ(元はっぴいえんど)が務めるという魅力的なアルバムでした。
    五輪さんの世界は薄曇りの空、ゆったりとした時間の流れる大人のな世界が魅力でした。“落日のテーマ”などはその世界そのものです。この曲は何かのドラマの主題歌になっていたと思います。後に感じたのですが、歌詞の中に小道具として煙草がわりと登場します。
    その後何故かフランスへ。フランス語のアルバムを発表。それ以後、時々シャンソンぽい曲が出てきます。そして大ヒットした“恋人よ”はデビューから9枚目のアルバムです。急に歌謡曲の番組で見る機会が増えたり、昔からのファンからはブーイングが起きました。『恋人よ』の前に発表された『岐路(みち)』もまた素晴らしいアルバムなのでおすすめです。個人的にはこっち。
    結構印象的なコンサートがありまして、それは『マリオネット』の頃のバックが全員新メンバーになったツアーでした。急に予定にないリクエストコーナーを五輪さんが言い出した時のバックメンバーの慌てよう、笑ってしまいました。リクエスト曲の譜面をみんながバタバタ探したり、曲の終わり方が決まってなかったみたいで、最後みんなが顔を見回しながら「せーの」っていう感じで終わらせたり。そのメンバーに今の旦那さんがいたのでした。

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